― 桜 ― (1)


 もう、何年が過ぎたのか、自分では分からないほどの長い長い時が経っていた。
 何をする訳でもなく、誰かと話をする訳でもない。最後に誰かと話したのはいつになるだろう。
 ただ鳥の鳴き声や木々のざわめきを聞くともなく聞き、池の水面をぼんやりと眺めて、夜になれば眠り、明るくなれば起きる。起きても何もすることがなく、うつらうつらと眠ってしまうことがある。夢の中で、自由に動き回っている自分を見・・・、そして、目が覚めて自分の境遇を再確認し、余計な事を考えたくないと、再び目を閉じる。時折山に入って遊ぶ子供達の声で目が覚め、その姿を確認して溜息を付く。自由な彼らが羨ましく、そして妬ましい。
 自分は、ただの一歩も森から出ることが許されない。それは、自分が過去に犯した罪に対する罰。罪が許される時、それは解放の時。彼は・・・鬼は、新しい命として生まれるため、やっとその生を終えるのだ。
 彼はそのために、甘んじてこの罰を受け入れた。
 彼を鬼だと知って恐れた者がいた。大多数の人間が、この部類に属した。
 だが、そうでなかった人間もいたこともあった。そういった類の人間は、鬼である彼をただの人間として扱い・・・、傷を負った彼を救い、彼を愛した。そんな人間達は、少しずつ歳を取り、彼より先に死んで行く。永遠の別れを体験し続けなければならない自分。それが恐ろしいことであると、彼は生まれてから五百年をかけてやっと知ることになり・・・、そして、自らも死を願う。
 プライドを捨て、死を与えることができる神に乞い、結果、罪を償うための長い長い独りの時間を与えられることになる。
 そして、今日も彼は、羅刹は、ただ一人、池のほとりで空を眺めていた。

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 がさっと音がして、羅刹が座っていた木のそば、藪の中から一人の少女が姿を現した。着物の色や背格好からして、まだ十代前半といった所か。着物の袖で顔を覆っているため、他に判断材料が無い。
 少女は池の前まで早足で進み、やっと立ち止まって、ほうっと息を吐いた。肩で息をして、黙って池を眺めている。
 何を考えてここまで来たのかは知らないが・・・。羅刹は少女に少し、興味を持って眺める。少女のほぼ真後ろに、羅刹は座っていたのだが、彼女がそれに気付いた様子はない。人間をこんなに近くで見るのも随分久しぶりだ。
 少女が、不意に動いた。草履を脱ぎ、裸足になった。もう一度池を見つめ・・・、それからゆっくりと前へ進みだした。
 嫌な予感がして、羅刹は立ち上がる。季節は夏の終わり、まだ池の水は冷たくないとはいえ、着物のまま水に入るのは自殺行為だ。それを分かっているのかいないのか、少女はゆっくり水の中に入り、もう腰の辺りまで水に浸かっている。
 羅刹は少女の後を追って、自分も池の中に足を踏み入れた。何が何でも自殺を阻止しようという意気込みは無かったが、何の干渉もせず、目の前で死なれては、自分を封印して罪を償わせている相手である、龍の怒りをかってしまう可能性がある。龍は、寿命や事故以外で人の命が失われるのを、非常に嫌うのだ。
 少女が羅刹を見ることが出来る、数少ない特殊な部類の人間であったなら、少女の命は助かる。見えない人間には触ることが出来ないから、例え少女が命を落としたとしても、羅刹が一応止めようとしたということにはなる。そんな計算で、羅刹は少女の肩に手をかけた。
 その瞬間。彼女は体を強張らせ・・・、恐る恐る振り返った。
 羅刹の姿を確認すると、少女は息を飲んだ。お互い、まだ一言も声を発していないが、その反応から、少女に羅刹が見えるのだということは確認できた。
 「おい、死ぬ気か?」
 羅刹の問いに、少女はためらうことなく肯いた。
 十代前半かと見えたその少女は、正面から見ればそれほど幼くは無い。おそらく、十六、七。大きな黒々とした瞳で、真っ直ぐに羅刹を見つめる。どうやら泣いていたようで、その目は赤く充血し、頬が火照っている。
 「死なせてください」
 その声からは、彼女の意志の強さが読み取れる。
 羅刹は溜息を付き、強引に彼女を抱き上げた。着物が水を含んでいるので重いだろうと思ったが、拍子抜けするほど軽かった。
 「ちょっと・・・、離してくださいっ!」
 「せっかく覚悟して池に入ったのに、悪いな。
  ここで死なれると、後々面倒だから、どっか別の所でやってくれ」
 岸に向かって歩く間中、彼女はじたばたとしていたが、やがて、どんなに足掻いても羅刹が離してくれないと分かると、大人しくなった。
 水から上がると、羅刹は先程自分が座っていた木の側まで連れて行き、そこでやっと彼女を降ろした。少女は立っていられなかったのか、その場に座り込んだ。
 「落ち着いたら帰れよ」
 これで自分のしなければならないことは終わった。この後彼女がどうなるかは、羅刹の関することではない。これ以上関わって、面倒なことになるのが嫌だったので、それだけ言って立ち去ろうとした。が、袖を引っ張られて彼女を振り返った。
 「何だよ」
 「・・・何故・・・、あなたは濡れていないんですか?
  池の中に、わざわざ私を助けに入ってくれたのに・・・」
 指摘された通り、羅刹の衣服は少しも濡れていなかった。対照的に、少女の着物からは雫が落ちている。
 羅刹は何も答えない。
 「それに、私はあなたを知りません。
  狭い村だから、歳の近い人はみんな顔見知りのはずです。」
 それでも羅刹は黙っている。どうやら少女には、それがじれったいらしい。
 「あなたは、誰ですか?」
 全く物怖じをしない少女。そして、意志の強そうな瞳。羅刹は、顔には出さずに少し笑った。嫌いな部類の人間じゃない。むしろ、少し気に入ってしまった。だから、素直に口を開いた。
 「・・・俺は羅刹」
 それだけで充分だ。案の定、少女は呆然とした顔で羅刹を見上げ・・・、やがて、彼女は微笑んだ。羅刹の言っていることが冗談だと思って笑っているのではなさそうだが、何故笑うのかは分からなかった。
 「・・・じゃあ、私を殺せますか?いいえ・・・、私を、殺してくれますか?」
 穏やかに、彼女は言った。今度呆然とするのは羅刹の方だ。確かに彼女は自殺志願者なのかもしれないが・・・、殺さないでくれと懇願した人間は嫌というほど見てきたけれど、殺してくれと笑顔で言われるのは初めてだ。
 「・・・お前・・・、自分が何言ってるのか、分かってるのか・・・?」
 「分かってます。でも・・・、私は死にたい。
  ・・・いいえ・・・、死にたくないのだけれど・・・、私は死ななければならないから。
  自分で自分を殺すのは、やっぱりなんだか怖いから・・・。
  だから、どうか私を殺してください」
 彼女はあくまで穏やかで、全く取り乱すことはない。羅刹にも、どうやら本気のようだということだけは分かった。
 とんでもないのに関わってしまったのかもしれない。名乗ったのが間違いだったのか、それともそもそも助けたのが間違いだったのか。羅刹は大きな溜息を付いた。
 「俺は、人間は殺さない。殺すと、後で色々と、面倒でやっかいなことになるからな。
  死にたいなら自分で勝手にやってくれ」
 面倒というのは、羅刹をこの森に閉じ込めた神、龍から一方的な説教を食らう事を意味し、やっかいなことというのは、もちろん、死ぬまでの時間が長くなるということ。彼女を殺しても鬼である羅刹には、"自分にとって、どうでもいい人間の死"であるので、大して意味をなさない。だが、神である龍には"どうでもいい人間"など存在しないので、これを説明したところで納得してもらえるわけでもない。罰を受けるのは必至だ。
 「・・・お願いします。私を殺してください」
 それでもなお、少女は頭を下げる。
 何故。怖がるどころか喜ぶ?殺される事を願うのだろう。
 羅刹の頭の中には、面倒だからさっさとこの場を立ち去れと言う自分がいて、そうかと思えば彼女が死にたがる理由に興味を持つ自分がいる。
 そして結局。後者が勝った。
 「・・・お前、何が不満なんだ?
  いい着物着て、髪もちゃんととかしてるってことは、地主の娘だろ?
  金もあって、地位もあって・・・。それで何が不満だ?」
 「・・・不満・・・?・・・いいえ・・・お父様やお母様には、本当に良くして頂きました。
  お兄様もとても優しい方で・・・、家庭に不満はありません」
 「・・・じゃあ、恋愛ごとか?恋人に捨てられた?
  それとも、結婚相手が気に食わないのか?」
 その問いにも彼女は首を振って、「いいえ」と答える。
 「私は、何かに不満があって死にたいわけではないんです。でも、私は・・・」
 そこで彼女は軽い咳をして、私は、と言葉を続けようとした。が、今度は激しく咳き込んだ。咳はなかなか止まらず、少女は額に冷や汗をかき、涙目になっている。
 成る程・・・。瞬時に羅刹は理解した。彼女が死にたいと言った理由。それは全て、このためだったのだ。
 羅刹は軽い溜息を付き、お人好しな少女の背中をさすってやる。そうしたのは同情したためではない。自分にも分からない、何か別の感情が働いたせいだった。
やがて咳は止まり、だが、酸素が足りずにぜいぜいと喘ぐ少女。黙ってその横に座り、彼女が落ち着くのを待った。
 「・・・結核・・・か?」
 彼女は黙って肯いた。まだ喋るには苦しいらしい。
 息を整え、羅刹を見上げる。
 「・・・殺して、くれますか?」
 「・・・これ以上、苦しみたくないからか?」
 身体の負担もさることながら、この当時、結核は不治の病と言われ、隔離されることがしばしばだった。精神的にもかなり苦しい闘病生活になるのは目に見えている。
 「私は、誰にも病気をうつしたくないんです・・・。だから、お願いします」
 すがるようにそう言われては、さすがに困る。彼女の気持ちも分からないではないが、これ以上人間を殺さないと龍と契約した身である自分は、例え本人が望んだとしても人の命を絶つことは許されないだろう。かと言って、ここまで理由を知ってしまったら、できないからと、彼女を追い返すわけにもいかない。
 「・・・ごめんなさい、無茶な事を言ってしまって」
 羅刹の心の葛藤を見抜いたのか、少女は謝った。それから、立ち上がって一礼し、もと来た道を戻り始めた。
 「おい」
 あまりにもあっさり彼女が引いたので、思わず呼び止めてしまった。が、特に言うべき言葉は無い。少女が振り返ってから、少しの間、次の言葉を探した。
 「・・・お前、名前は?」
 何を言われるのかと、緊張した面持ちで言葉を待っていた少女は、その問いにほんの少し笑った。
 「・・・桜」
 「桜、人間ってのは早かれ遅かれ、みんな死ぬ。例え、お前の親が結核で死んだとしても、
  それはお前のせいじゃない。運命だよ。お前が結核にかかったのも、
  近い将来、・・・お前が命を落とすのも。
  そんなことで自分を追い詰めるな。与えられた時間を、精一杯生きればいい」
 そう言い聞かせなければ、羅刹自身も辛い。自分が鬼に生まれついたのも運命、こうやって独りで長い時間を過ごさなければならないのも、運命。だが、羅刹には与えられた時間を精一杯生きる、ということは出来ない。それはある意味、長い生を持たない人間に与えられた、特権というものだろう。
 桜はしばし、その言葉を反芻するように、羅刹の顔をじっと見ていたが、やがて肯いた。そして、深々と礼をした。
 「・・・ありがとうございました」


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