― 桜 ― (2)


 随分と、桜のことが気にかかっていた。
 あれから、もう一ヶ月ほど経つ。具合が悪いのか、それとも必要性を感じていないのか、桜が羅刹の元を訪れることはなかった。
 人の足音が聞こえると、その主を確かめたくなる。声が聞こえると、思わずその方向を探してしまう。
 何故自分がそんなに彼女に執着するのか、自分でも良く分からなかった。ただ、殺してくれと言った、桜の瞳が忘れられない。もっと、死ぬのを怖がってもいいはずなのに。強い意志でそれを押し殺し・・・、誰に看取られる訳でもなく、たった一人で死ぬ覚悟を決めた、彼女の悲しい瞳。
 大きな溜息を付いて、羅刹は頭を振った。彼女に会いに行くことは出来ないし、行って自分に何が出来るわけでもない。なら、忘れてしまうのが最良の方法だ。
 そこまで考えて、もう一度大きな溜息を付いた時。 羅刹の耳は、足音をとらえた。足を引きずるような、重い足取りだ。随分遠い場所だが、鬼である羅刹にとっては、簡単に聞き取れる。
 まさか。
 まだ朝も早い。まだ日が昇っていないのだ。 そんな時間に、普通の人間がここに来るはずは無い。
 羅刹は立ち上がった。それから、ゆっくり歩き出した。おそらく、足音の主が向かっているであろう場所に向かって。

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 羅刹がその場所に着いた時、足音の主は池のほとりに座り込んでいた。まだ薄暗かったが、その後ろ姿は間違いない。
 「・・・桜」
 その呼びかけに、少女は振り返った。
 「・・・おはようございます」
 少女は・・・桜は、笑顔だった。だが、その頬は肉が落ち、髪にはつやが無く、顔色も悪い。それは明らかに病人の姿。
 「お前・・・、大丈夫なのか?こんな所まで出てきて・・・」
 「・・・まだ、大丈夫です」
 それでも、桜は笑顔を崩さない。無理をしているのは羅刹にも分かった。
 「何しに来た?」
 言って、羅刹も桜の横に座った。近くで見ると、この間よりも随分痩せてしまったのが分かる。色も白い。外に出してもらえないのだろう。だから、こんなに朝早く、まだ夜も明けきっていない時間に、ここにやって来たのだ。
 「お別れを、言いに。・・・本当は、もっと早く来たかったんですけど」
 さすがに、そう言った瞬間は、彼女の顔も曇る。だが、すぐにまた、羅刹に向かって微笑んだ。
 「・・・体調悪いのに、俺に会いに来るメリットはあったのか?」
 もちろん羅刹は気になっていたので、彼女に会えて、ある意味ほっとしている。ただ、辛い体を引きずって、わざわざ羅刹に会いに来た桜の気持ちは分からない。
 「私は・・・、あなたに会えて、本当に良かったです。
  私は、私自身が死ぬことより、両親が・・・、兄が、結核で死ぬ方が怖かったんです。
  だから、私は逃げたかった。自分が死ぬことで、そんな事態が起こらないように。
  でも、本当は誰かに言って欲しかったんだと思います。
  そうなったとしても、それは仕方ないんだって。私は悪くないって・・・。
  でも、そんなこと・・・、誰も言ってくれるはずもなくて・・・」
 途中から、桜の顔からは笑顔が消え、涙目になる。
 羅刹は、桜から目をそらした。泣かれると、どうしていいのか、困るのだ。
 「でも、あなたは運命だと言ってくれた。とても・・・とても楽になりました・・・。
  だから、あなたには、ちゃんとお別れを・・・」
 その言葉の途中で、桜は咳き込む。この間のものとは比べ物にならない、身体中の空気を全て吐き出すかのような、激しい咳。そして、その口から、赤い赤い血が流れるのを羅刹は見た。
 羅刹は前回と同じように、そっと桜の背中をさする。そうしたところで、今の彼女にはたいした効き目は無いだろう。だが、黙ってその行為を繰り返し続けた。
 長い時間の後、やっと咳は止まった。肩で息をしながら、桜は胸元から白布を出して、口のあたりを拭った。
 「・・・ごめんなさい・・・。それから・・・、ありがとうございました」
 まだ苦しいはずなのに、桜はそれだけ言うと立ち上がる。これ以上長居をすれば、自分が動けなくなるのを知っているのだろう。
 「・・・森の出口までなら、抱いて行ってやる。こんなとこで倒れたら、どうしようもないだろ」
 足元の覚束ない彼女を見るに見かね、羅刹はそう言って立ち上がり・・・、だが、桜は首を振った。そして、柔らかい笑みを浮かべてみせた。
 「私がここで死んだとしたら、それも運命なんでしょう?」
 なんと言っていいか、羅刹が迷っている間に、桜は背を向け、ゆっくりゆっくり歩き出した。
 結局、羅刹は何も言わないまま、その後ろ姿を見送る。そして、人影が見えなくなった頃、大きな溜息を付いた。
 いつもながら、自分に関わった人が死を迎えるのは、見て気持ちいいものではない。できるだけ、羅刹はその場に立ち会いたくなかった。向き合いたくない感情・・・、悲しみや絶望のようなものを、味わうのが嫌だった。
 もう一度溜息を付き、先程桜が座っていた辺りに腰を下ろす。そろそろ枯れそうな草の上、赤い滴にそっと手を伸ばした。それは桜の命の一部。指に付いた血を、羅刹はためらうことなく口に運んだ。久しぶりに口にした人間の血は、随分と甘く感じた。

 嫌な感じがして、目が覚めた。真夜中だ。
 起き上がって、注意深く辺りを見回す。人の気配は無い。だが、羅刹はこの妙な感じを知っている。
 「・・・龍・・・か・・・?」
 声に出して、言ってみる。
その瞬間、ふうわりと目の前に光の塊が下りてきた。そしてそれはゆっくりと人型をとり始めた。もう間違いない。
 「・・・何の用だよ、龍」
 光に包まれた少年の姿が現れる。やはり何百年、何千年経っても変わることは無い。少年の姿をしてはいるが、正真正銘、竜神の化身なのだ。
 「久しぶりだね」
 龍は言って、笑ってみせた。
 「何の用だと聞いている」
 明らかに不機嫌な声で、羅刹は問う。龍から溢れ出るような神々しい光が、羅刹は大の苦手だったのだ。
 「・・・君の大事な少女は、今夜が峠だよ。
  君が望むなら、ほんの少しだけ、連れて行ってあげる」
 「・・・余計なお世話だ」
 羅刹はそう突っぱねた。桜の死は、そう遠くないだろうとは思っていたが、やはりそう言われると少しショックだった。龍が何を考えてそう言っているのかは知らない。桜に会いたくないわけではないが、人間の死は、羅刹には辛い。
 「また逃げる?彼女には運命に従えと言ったのに」
 「・・・俺は逃げてなんかないだろ」
 仏頂面で反論する。が、その口調はやや弱い。
 「逃げてるよ。君や僕が、親しくなった人間を看取るのは運命なんだよ」
 龍はあくまで穏やかな口調だったが、羅刹には全くそう感じられなかった。
 「彼女の魂を、安らがせてあげて。少しでも、楽に逝けるように」
 結局それが目的か、と羅刹は溜息を付いた。龍が願っているのは、人間の魂の平安。使えるものは鬼でも使え、か。
 その心を読んだように、龍は肩をすくめた。
 「もちろん、君のためでもあるんだけどね」
 今度は羅刹が肩をすくめ、やれやれと立ち上がった。
 それを見て龍は肯き、小さく呪を呟き始める。
 すうっと、自分の体が浮き上がるのを感じた。同時に、たくさんの光に囲まれる。これは羅刹にとってはかなり不快だったが、黙って耐えた。身体が大気に溶けていくような、眠りに落ちる瞬間の柔らかく心地いい感覚の後・・・、羅刹が立っていたのは、古い家の、薄暗い廊下だった。

 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

 羅刹は辺りを見回し、それから人間の気配を感じる方に歩いて行った。
 ほとんどの人間が、羅刹の姿を見ることは出来ないため、用心する必要はない。さらに真夜中だから、家の中は静まり返っている。例え羅刹の姿を見ることが出来る誰かが起き出して騒いだとしても、周りの人間は幽霊でも見たのかと思うだろう。
 人の気配を頼って羅刹が行き着いた先は、普通の部屋ではなかった。座敷牢・・・、中の人間が出られないよう、ふすまの代わりに格子をはめ込んでいる。
 中は暗かったが、夜目の利く羅刹には、その様子が良く見えた。
 格子の錠をはずし、中に入った。
 薄い布団が敷かれ、そこで荒い息をついて寝ている人間。
 「・・・桜」
 羅刹は、小さな小さな声で呼んだ。起こすつもりは最初から無い。
 随分熱が高いようだ。枕元に座り、汗で額や頬に張り付いた髪を、そっとはがしてやる。
 「・・・だ・・・れ・・・?」
 呼びかけが聞こえたのか、それとも羅刹の手が触れているのを感じたのか、うっすらと、桜は目を開いた。
そして、羅刹の姿を認め、驚いたような顔をしてから、笑ってみせた。
 「・・・来て・・・、くれたんですね・・・」
 小さな声だった。息苦しいはずだ。それなのに、桜は笑顔だった。それは、安堵の笑みのように見えた。
 「よかった・・・。独りは・・・、やっぱり・・・辛い、から・・・」
 言って、桜は羅刹に触れようとしてそっと手を持ち上げ・・・、羅刹はその手をとった。
 「お前、・・・ずっと、独りでここに?」
 羅刹の問いに、桜は肯いた。
 「・・・私・・・、本当の子供じゃ・・・ないから・・・、仕方ないんです・・・。
  父も母も、本当に良くして下さったから・・・、もう、充分です・・・」
 たった独りで、日も当たらない、自由の利かない場所に放置されるように寝かされて、それでも文句を言わない。恨み言を言うのだろうと思っていたのに。
 「・・・でも・・・、やっぱり・・・こんな所で・・・独りで逝くのは、寂しくて、怖くて・・・。
  だから・・・、・・・あなたが来てくれて・・・、嬉しかった・・・」
 瞳から、大粒の涙がこぼれた。それでも桜は羅刹に笑いかけた。
 「・・・ありがとう・・・」
 「・・・桜」
 何か言わなければならないのは分かっているが、言葉が見つからない。黙って桜の顔を見、あいている方の手で涙を拭ってやった。
 「・・・もっと、早く会いたかった・・・。
  ・・・そうしたら、・・・もっと・・・、色んな、話・・・、出来た、のに・・・、」
 桜はすうっと目を閉じ、それっきり、何も話さなくなった。
 名前を呼んでも反応は無い。だが、まだ息はある。
 話し疲れたのか、それとももう、身体が限界なのかは、羅刹に判断できなかった。黙って桜の顔を眺めた。
 桜は時折、苦しげに身をよじる。息は随分弱い。
 そのまま、数十分。
 不意に、桜が大きく息を吸った。二、三度、身体が痙攣して、それが止まると、長い長い息を吐いた。
 その口から、血が、桜の命が、溢れて、溢れて・・・。
 羅刹は、目をそらすことが出来ないまま、半ば呆然と、その姿を見ているだけ。握っていた桜の手から、力が抜けていく。
 「・・・桜」
 呼びかけても、軽く揺すってみても、反応が無い。そして、もう、桜の身体は息をしていなかった。あっという間の、死。永遠の、別れ。
 羅刹は、しばらく脱力感で動けなかった。
 桜は、幸せだったのか。こんな風に、寂しい最後を迎えなければならないなら、あの時殺してやればよかったのだろうか。それとも・・・。
 羅刹は、胸に溜まった何かを吐き出すように、大きな溜息を付いた。それから頭を振った。今はこんな風に考えに沈んでいる余裕はない。自分には時間がない。いつ、龍に連れ戻されるか分からない。
 握っていた桜の手を布団の中に戻してやる。自分の着物の袖で、口元に付いた血を拭った。
 「・・・相変わらず口下手だね」
 不意に後ろから飛んできた声に、羅刹は肩をすくめた。
 「ちゃんと言ってあげれば良かったのに」
 「何のことだよ、龍」
 龍は少し笑って、桜をはさんで羅刹の向かい側に座る。
 「・・・桜ちゃんに、好きだって言ってあげればよかったのに」
 その台詞に、羅刹はもう一度肩をすくめただけだった。
 あまりにそっけなかったので、龍は苦笑した。それから、桜に目を移し、布団を掛けなおしてやった。
 「・・・何か、言いたいことがある?」
 いつもよりさらに言葉少ない羅刹に、龍は問い掛けた。
 「・・・あの時、俺が殺してやればよかったんだ。
  そうしたら、苦しまずに死なせてやれたのに」
 呟くように、羅刹は言った。さっき、独りで考えていたこと。
 「桜ちゃんは、後悔してなかったみたいだよ。
  君に会った後にだって、自分で命を経つ方法は沢山あったはずなのに。
  そうしなかったってことは、桜ちゃんは結核で死ぬことが運命だと納得して、
  安らかな気持ちで死んだってことにならない?」
 優しく、桜の頭を撫でながら、龍は言った。
 桜は後悔していたのだろうか。最後の瞬間まで、彼女は笑顔だった。そして、「ありがとう」と言った。家族に対しても、羅刹に対しても恨み言は言わなかった。
 「・・・気が済んだら戻っておいで」
 龍は言って、立ち上がった。
 「・・・いや、いい。もうここにいても意味はないし」
 目の前にあるのは、桜の亡骸。もう二度と、動かない。
 羅刹は立ち上がり、龍は一足先に部屋を出た。羅刹も部屋を出かけ・・・、ふと、足を止めて、後ろを振り返った。
 それから、もう一度桜の枕元まで戻り、そっと、その頬に触れた。
 「・・・もしかしたら・・・、惚れてたのかもな」
 溜息とともにそう言って、桜の唇に、自分の唇を重ね、そして、立ち上がった。
 「・・・お休み、桜」


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